もちもちおねいまんと4枚の絵

もちはもちや おねいまんはもちもちおねいまんです

崖の上のポニョの地図2おねいまんにしてはよくしゃべる

自分の人生だけでいっぱいいっぱいなもちもちおねいまんが、珍しく映画を見てきましたのでみなさんに解説します。
まだ見ていない人は読んでもいい気もするけど読まないほうがいいかもね!


【バケツから世界へ接続する】
ポニョは井の中の蛙ならぬポリバケツ金魚で、バケツほどの狭い世界の中で警戒しながら、宗介を見つめ好きになりました。ポニョは宗介のどこがよかったのだろうとわたしは思うのですが、人を好きになるのになにがどうだからという理由は必要ありません。ただ自分の中に好きという気持ちがあるだけ。その好きの針が大きく振れればバケツから出て大きな世界と接続することも怖くないし、手だって足だって生やすことは簡単なのですね。女の子にとっては。
思い返せば宗介なんて、ジャムのびんを割るときに腹のほうから割ったし、海水じゃなくて水道水を入れました。水を代えようとしてポニョを滑り落とすし、僕が守ってあげるからね って言うそばから波にさらわれてしまうし、泣くし、トンネルに入る前のポニョの「いや」に気づきません。女の子はいつも明るいけれども怖いと思ったら眠る金魚くらい何もできなくなってしまいます。いやと言うからには本当にそれはもうだめでできないこと。なのに男の子は女の子が魚になった後でやっと気づいて死んじゃだめだと後悔したりします。がさつで鈍感で頼りになりません。三歩あるけば、最後のキスの約束も忘れる生き物です。リサが言うように男はみんなビーエーケーエーなのです。けれどもかわいそうに、女の子はそんなビーエーケーエー男子の承認がないと生きてゆくことはできず海の泡になってしまう存在でもあります。

【過ぎ去った時代への回顧と家族】
宗介の家族はここ数十年の日本を代表するような3人家族。働きながら子育てをする母親リサと小金井丸で小金を稼ぐため不在の父耕一、そして聞き分けのよい子ども宗介。ふだんバランバランになっているこの三人のよりどころは高い崖の上に立つ一軒家です。
誰もが思うことだとは思いますが、リサに対する違和感といったらない!何しろ髪型が今時えりあしを刈り上げたボブカットなのす。まるで若き日の小泉今日子を思わせるヘアスタイル、そして懐かしい、マツダのキャロル*1や三菱のミニカトッポ*2を思い起こさせるピンクの暴走軽自動車!彼女はバブル前のスタイルでずっとかわらず暴走しつづけているのです。彼女のアクセルは時計の竜頭であり、距離=速さ×時間であり、時間=速さ÷距離ですから、つまり忙しい時間をらせん状に巻いて進めている時間管理人はリサなのです。
宮崎駿二馬力という個人事務所を立ち上げたのは1984年。翌1985年は男女雇用機会均等法ができた年です。その後10年は、オウム真理教やらとんねるずが出現し、世紀末を控え、超自然的な何かがあるかも・・・みたいなことが感じられる最後の時代でありました。わたしたちは、宮崎駿とともにあの頃から変化していった家族のありかたをこの映画で共に振り返ることになります。
たとえば、洪水の後、一艘の手漕ぎ船に乗った1950年代頃の夫婦が登場します。ポニョが赤ん坊に異様に興味を示すのが不思議だったと思いませんか。実はあの赤ん坊はとなりのトトロ(1988年)のサツキなのでした。そしてポニョはあの瞬間メイになって姉をあやしたのです。

宮崎駿の革命】

一方ポニョの父は海底の科学者です。高度に発達した科学者は魔法使いと見分けがつかない、ように、ポニョの母親もまた風変わりな人物です。人物というよりは海の中を優雅に背泳ぎしながら海の生命を司る巨大な精霊と言ったほうが正しいかもしれません。ゆえにポニョは科学と海から生まれた子。科学と生命が融合した意思を持つ芸術的作品なのです。

わたしは映画を見る前にに、こちらの記事

たけくまメモ-宮崎駿アヴァンギャルドな悪夢
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html

を読ませていただいたのですが、アヴァンギャルドな子ども映画って悪夢ってどんなだろうー、なんなんだろうーととても気になっていました。その意味は幻想的な音楽の流れる冒頭の海のシーンを見た瞬間わかりました。
海月*3プランクトンの泳ぐ細かい描写はあまりにも具象的で逆にミロやカンディンスキーやクレーの抽象的絵画と見分けがつきません。流れる音楽はロシアの交響曲のような壮大さを思い起こさせるのです。20世紀のはじめ、芸術が科学と結びつく力が世の中を良いものに変えてゆくのだという理想のもとに起こったさまざまな芸術的革命がありましたが、多くの理想は戦争により断ち切られました。そう、この海底に浮遊する生物は過去の芸術家の魂なのです。そして海と陸を結ぶ崖はタトリンの第三インターナショナル記念塔なのです。*4
ポニョは崖伝いに陸に上がり、海は街を飲み込みます。驚くべきことに宮崎駿は愛と芸術で世の中を変える闘争を諦めてはいなかったのです!
考えてみれば、フジモトもグランマンマーレもリサも耕一も宗助もポニョも、誰も彼も相当にアレだとは思いませんか。しかし本人たちはそのアレさに気づいていないのだけれども、見ているわたしたちは気づきます。
・・・なにかおかしい、狂っている!
そう、世界を変え自己を進ませるものは単なる気遣いや道徳や正義ではないのであります。あのシーンを思い出してください。ポニョと宗介を守ろうと大声を上げて大きく手を伸ばして抱きとめようと行動したのは、嫌味が得意で憎まれ口ばかりたたくトキおばあさんだったではありませんか!むしろ自分の中にある消し去りたい過去、コンプレックス、無意味な暴走や粘着的なこだわりなどをひとまとめにしたところからうまれた「理想ある狂気」こそが世の中を明るくする発電機なのではないでしょうか。
崖の上のポニョ」は宮崎駿の渾身の狂気であり、2008年夏映画館でおこった革命なのです。