もちもちおねいまんと4枚の絵

もちはもちや おねいまんはもちもちおねいまんです

心と体二元論と、献身について。

去年あたりから意識はしていたんだけど
http://d.hatena.ne.jp/motimoti3/20140303
http://d.hatena.ne.jp/motimoti3/20140317
http://d.hatena.ne.jp/motimoti3/20141109

自分を観察していて深く考えてみようと思った。「起きてラジオ体操したい」と思う自分と「寝ていたい」自分。単に心と体がばらばらにあって合わさる感じじゃなくて、それぞれに心と体が1セットずつある感じだなーと毎朝毎朝観察していた。お布団の中で。
寝ていたいほうの自分を「心の自分」とすると、もうひとつの「体の自分」とはどんなものであろう、普段あまり意識していないけれど・・・。そして「体の自分」のほうの心は普段どんなことを考えて過ごしているのだろうか。


体を作るものは食べ物である。食べ物になってくれるものは、わたしが料理するときに「食べるよ」って言うと必ずいつも「どうぞ!いいよ。」と言ってくれる。お肉も。スライスされて食べ物になることを受け入れてくれるようになった状態で、わたしは出会うことができる。
それなのにわたしは日常の中の些細な出来事で、怒る。受け流したり忘れたりするけど、たとえば混んでいる駅で特に悪気もなく横切る人に対しても一瞬むかっとする。この心の狭さは何なのだろうと思う。あとで落ち着いて振り返るとね。

たとえばニンジンをわたしが食べる。ニンジンはわたしの肌や目や血液になる。わたしの体の一部になり動けるようになる。人参の献身的な思いはわたしの行動を通して具体的に表現できるようになる、ということなのだ。

そうしたら、ニンジンの心はどこにいく?ニンジンの心は「体のわたしのほう」の心に収納される。ということは、わたしが生まれてから今までに食べたものの思念はぜんぶそこに行っている。「体のわたし」の心は献身的な優しさで溢れている、と考えて間違っていないと思う。

そのような理由でわたしの体は「献身に関すること」を行動で表すととても調子が良くなる。他人に対してモノに対して心のわたしに対して世界の全部に対して。喜んで調和していく。
献身と逆のことをするとどうなるか。おそらく最初は逆のことをするわたしに対して、心配し親切に尽くそうとしてくれる。病気とか落ち込みとか様々なサインをくれるだろう。でも見過ごしてしまったりわかっても助けてあげようともしなかったら(わたしが食べられたのはこんなことのためじゃないのに)と怒り悲しむしかなくて、自分自身を消滅させようとするかも。
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・・・

*1:このふたりを仲良く助け合わせて上手くやっていくにはどうしたらよいか、これはいつかまた後で描いてみよう。